謝罪会見〜これって誰に向けて?〜
こんにちは!!
鬱考です。
最近また謝罪会見の事がTVで取り上げられて、色々言われてますね。
今回は私が謝罪会見について疑問に思ってる事を書きたいと思います。
謝罪会見は誰に向けて?
TVでコメンテーターが「謝罪会見の内容が良くない」とか「謝罪会見でこんな言葉使うべきではない」とか色々言って盛り上げている訳ですが、今回の私が書くのはそう言う事ではありません。
単純に疑問なのは、芸能人の人達の謝罪会見って、カメラの先にいる誰に謝っているのか分からないんですよね。
被害者が存在する事件を起こしたのであれば、被害者に謝罪すればいいと思うし、関係者やスポンサー、共演者など迷惑をかけた人がいるのなら、その人達に謝ればいいと思うんです。
応援してくれていたファンを裏切ったのであれば、今はいくらでもリアルタイム配信できるメディアもある訳ですから、ファンに向けてファンの意見を聞きながら謝罪すればいい。
内容が不倫だった場合、もっと意味が分かりません。それは家庭内の事ですし、自分のイメージダウンでスポンサーに迷惑をかけたのはもちろん分かりますが、「申し訳ありません。」って謝罪会見をされても、「???」です。
TVの前で全く関係のない芸能リポーターの意地悪な質問に答えながら全国の人に謝罪会見 をしている姿を見せられても、被害者でもない、ファンでもない、関係者でもない私から見れば、ただの「社会的制裁を受けている人」を見せられているだけで、それ以外の何でもありません。
これを見て「いいきみだ」と思う歪んだ人もいるかもしれませんが。。。
「世間をお騒がせしてしまいまして申し訳ありません。」って言いますが、別に世間の多くの人は大騒ぎしていません。
大騒ぎしなくてはならなくなってしまったのは関係者達です。その人たちはもちろん可哀想だと思います。
芸能リポーターや情報番組関係者なんかは騒ぐことによってそれを記事にしたり番組にしたりして、お金に変えているだけです。そりゃ騒ぎますよね。。(苦笑)
謝罪会見を繰り返し情報番組で見せられ、事件内容を詳しく何回も報道されて、被害者は不快ではないのでしょうか?
疑問です。
政治家が不祥事を起こした場合、多くは謝罪会見なんかしませんよね。囲み取材で謝ってポストを辞任して終わりです。
逮捕されるような事件を起こした場合、大体は入院などを理由に国民の目から逃げて、逮捕され終わりです。多くの人は謝罪会見なんかしません。
こういう人たちこそ謝罪会見をするべきで、国民に迷惑をかけた以上、謝罪をする必要はあると思います。(国民が納めた税金を無駄に使ったり、国会運営の邪魔になったりした訳ですからね。)
考えられる仮説
一つ考えられるとすれば、謝罪会見の段階で芸能界再起を考えているという事です。
カメラの前で全国に晒されて、神妙な面持ちで反省している姿を見せ謹慎すれば、世間から許してもらえて、いずれ芸能会に復帰できるかもと考えているのかもしれませんね。
現に芸能界復帰がどう考えても不可能な事件を起こしてしまった人は謝罪会見なんかしませんよね。
もしくは、「何かやってしまった時は謝罪会見をするものだ」と何も考えず会見しているか、マスコミが「謝罪会見はしないのか」と言ってくるので、会見をしているのか。
理由はまだまだわかりません。
終わりに
今回はいままで感じていた謝罪会見に対する違和感に関して考えてみましたが、いくつか仮説は浮かぶものの、全国に向けて会見を開く理由は私の中でも未だはっきりしません。
これからも色々な謝罪会見を目にすることでしょう。その度私はきっと違和感を感じると思うので、また新たな考えが浮かべば記事にしようと思います。
不祥事を起こした芸能人は謝罪会見をするというテンプレートを目にする度にその行動の本質が知りたくなるんですよね。
今回は全体的に否定的な文章になってしまいました。
不快に思った方には謝ります。
謝罪会見はしませんが(笑)
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今日の小さな出来事 〜大人のマナー〜
こんにちは!!
私が住んでいるエリアは決して上品とは言えない地区なのですが、出歩くと、歩きタバコ・信号無視・歩きスマホなど色々な光景を目にします。
時にはタバコを吸いながら自転車に乗って、信号無視する輩までいる始末です。
今日コンビニで買物を終え、外に出た時でした。小学生低学年位の子供達が丁度下校しているところ。
青信号がチカチカ点滅し始めたところ、先頭を歩いてるリーダーっぽい子が大きな声で、
「信号がチカチカしてたら渡っちゃいけないんだよー」とみんなに言い、
その後隣の子に
「なんで大人はチカチカしてるのに急いで渡るんだろうねー?」って言ったんです。
同じ地区に住んでいる以上、きっとこの子達もマナーの悪い大人を普段見てるんだろうなーって思いました。
子供にこんな事思わせちゃダメですよね。
大人達よ。しっかりしようぜ!!(私をふくめ。)
今日は時間がないのでこの辺で。
転ばぬ先の杖〜障害者手帳取得と私の考え方〜
こんばんは。
先日、障害者手帳を取得しました。
正確には「精神障害者保健福祉手帳」と言います。
初耳の方にはなかなかパンチのある名前ですよね。
今回は私がこの手帳をどういう風に考えて取得するに至ったかを書こうと思います。
これはあくまで私個人の事であって、同じ病気のみなさんに勧めている訳ではありません。状態の悪い時期、回復してきた時期など色々な状態があるのも私は知っていますし、中には病気を克服できた人もいると思います。
「こういう考え方で障害者手帳を申請した人もいるんだ」位で読んでもらえればと思っています。
医師からの「障害者手帳申請」の提案
うつ病になってが約10年が過ぎてしまいました。なかなか辛い日々も過ごしましたし、生きている意味を見失っている時期もありました。
一応、私の病気を理解してくれている知人から個人で仕事を受けて、少しばかりの収入を得ているような生活だったのですが、そういう知人がいっぱいいる訳もなく、仕事量は正直少なかったです。
かと言って、フルタイムで普通に働くのも厳しいという状態が数年続いていました。
いつかは良くなって、また働きに出られるかもと淡い期待もしていたのですが、そんなこんなでもう病気になって約10年。
これからどうしようかと少し考えていた時期でもありました。
そんな時、病院の先生から「障害者申請をしてみるという手もあるよ。」という助言をもらいました。
初めて聞いた時は正直びっくりしてしまいました。
「うつ病」と「障害者」が頭の中で結びついていなかったからです。
ちゃんと調べて情報を集めていれば、うつ病患者が障害者申請をする事が出来ることもあらかじめ知ることができた訳ですが、そんな発想は頭の中に全く無く、少しショックを受けたというか、何かそわそわした気持ちで家に帰りました。
帰ってからネットで情報を集め、色々考えました。
障害者に偏見を持ったり差別をしたりしているつもりはありませんが、いざ「自分が障害者になる」という現実をどう飲み込んで良いのか、これは申請するべきなのか、悩みに悩みました。そわそわして頭の中で色々グルグル回って何も手に付かない状態になってしまいました。
さてどうしたものか。。。
母親への相談
実は私の母親は「身体障害者手帳」をもっています。
昔、関節の手術を受けて人工関節が入っているのです。それでも元気に働いて、家事もこなし普通に生活しています。
一人で考えても正直冷静に考えられず、そんな状態では考えがまとまる訳がありません。
ということで、母親に電話で相談することにしました。
さすが母親。さすが経験者。アドバイスは的確でした。
その内容は「前向きに手帳を取得するっていう考え方もある」という事です。
私が障害者だと他人が知った時、偏見や差別に晒される事になる可能性ももちろんある。
でも障害者が利用できる支援サービスや障害者枠採用など、それを受け入れることで前へ進む道もまた見えてくるかも。と。
なるほどと思いました。自分が障害者になってしまうという事をただ否定してこのまま今の場所にとどまるよりも、それを受け入れて前に進んだ方がいいなって単純に思えたのです。
妻の理解
その夜その事を妻に相談する事にしました。
普段そんな事を言わない私が、LINEで「相談したい事がある」と連絡すると
妻は仕事を早めに切り上げて帰ってきてくれました。
そして話しました。
「前向きな気持ちで障害者手帳を申請しようと思う」と。
私が過去に体調を崩してアルバイトをやめてしまった事や、現在多くの仕事が入って来ていない事ももちろん分かってくれている訳で、私が前へ進もうという思いを持ったことに、妻も前向きな理解を示してくれました。
こうして私は「精神障害者保健福祉手帳」を申請しようと決意した訳です。
私にとっての「精神障害者保健福祉手帳」
それがシフト制のアルバイトやどんなに単純な仕事でも、行けなくなっては続きません。雇用主が私の病気の事を知っていてくれないと、働くのはなかなか難しい状態です。
私の病気を知った上で働ける場所をこれから少しづつ探そうと思っています。
もしかしたらそんな場所は存在しないのかもしれません。
でも、この行動は私にとって大きな一歩です。
うまく行くかどうかそれは全然わかりませんが、とりあえず一歩を踏み出してみようと思っています。
無理をするつもりはありません。
心のバリアが弱くなるこの病気。これでまた大きくつまづいてしまうと心の怪我も大きくなるかもしれません。
この精神障害者保健福祉手帳が「転ばぬ先の杖」になってくれるといいなと思っています。
終わりに
うつ病患者の方の多くが辛い日々を送っている事を経験上、分かっているつもりです。
休むのが一番の治療な訳ですから、今はこんな文章何の役にも立たないかも知れません。就職どころではありませんからね。
でももし、うつ病になってあまり時間が経っていなくて手帳の事を知らない方がいれば、精神障害者保健福祉手帳の存在を知って貰えればと思います。(多くの方は知っているとは思いますが。。)
そしてもし、少し回復してきて何か始めようと思っている方がいれば、精神障害者保健福祉手帳を「転ばぬ先の杖」だと思う考え方もあるよという事が伝わればいいかなって思っています。
障害者手帳を前向きに考えられた出来事の話でした。
まあ、この先本当に上手く行くかはわかりませんがとりあえず一歩!!
プロパガンダ〜今回の選挙で思った教育の大切さ〜
みなさんこんにちは。
今回は昨日までしばらく続いていた選挙戦で自分がハッとした事をキッカケに、
「教育ってやっぱり大事だなぁー」と考えてしまった事を書いてみたいと思います。
余談
どうして急にこんな始まり方かというと、今日、こうたさんの「ピポブル」というブログを初めて読ませて頂いて、「読みやすい文章だなー」「目次とか見出しとか使ってて親切に作ってるなー」と感銘を受けたからです。
考えている事もおもしろいなぁーと思いました。
◼️こうたさんのブログ「ピポブル」
ということで、今回は少し読み易い語り口で書いてみたいと思います。
まあ、今までこのブログを読んでいただいた方は数える程なので、文体が変わるも変わらないも皆さんにはあまり影響はないんですが(笑)
目次や見出しも付けて見ようと思います。
さてさて上手くいくでしょうか??
上手く行かなくて元に戻るかもしれませんが、ひとまずチャレンジです。
プロパガンダとは
通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省 (Congregatio de Propaganda Fide、現在の福音宣教省) の名称である。ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。
以上Wikipediaより。
つまり一言で言うと、人々に特定の思想や考え方を植え付ける宣伝活動のようなものですね。
例えば日本では戦時中、子供に強大なアメリカを倒すことを意識させる様なアニメを見せていた訳ですし、戦争に負けそうでも「日本優勢」と伝える事によって士気を上げようとしてた訳です。
軍国主義に導く様な様々なプロパガンダにより国のために死ぬのは名誉な事と信じている人もいたと思います。
日本のすぐ西にある某国の人々も子供の頃から特定の一人を絶対的な指導者と教え込まれているので、貧しくても我慢してその人を崇め、従うわけですね。(時代が変わって崇めている振りをしているだけの人も沢山いるとは思いますが。)
いわゆる「ファシズム」もその一例です。
まあ、例えはこれ位にするとして、プロパガンダの怖い所は「自分の知らない間に刷り込まれている」という事ですね。
今回の選挙戦でハッとしたこと
私は街頭で演説している候補者や、車で名前を連呼している候補者の話は基本聞きません。
時間も限られていることもあるとは思うのですが、やはり有権者の耳障りの良い事と自分の名前ばかりひたすら発しているからです。
まあ今回、私の政治や選挙の考え方はどうでもいいです。
そんな訳で、家に届く各候補者の名前と顔写真、簡単な政治方針が書かれた新聞みたいな紙を読むことになるのですが、そこでハッとしたのは、その写真を見て、
「全員悪い人に見える」
と感じてしまったことです。
私はもちろんその人の人柄も実際何をしてきた人なのかもよく知りません。
でもなぜ、全員悪い人に見えるのか??。。。答えは簡単でした。
テレビドラマや情報番組等です。
政治を扱ったドラマでなくても悪徳政治家がわんさか出てきます。全く関係ないドラマでもラスボスが悪い政治家というパターンは数え切れないほど見てきました。
情報番組でも政治家の失言や不祥事、派閥や忖度など悪いニュースを流し、コメンテーターがこれでもか!!と叩きます。
政治家の良いニュースはあまり取り上げられません。当たり前の仕事をちゃんとやっている事はテレビからはあまり流れてきませんしね。
そうです。
私も、ドラマやニュース、情報番組などで「政治家は悪い人たち」と知らない間に刷り込まれていた訳です。
その刷り込みのお陰で、候補者一覧を見たときに「全員悪い人そう」と脳が勝手に感じてしまったということですね。
今回感じた事とプロパガンダと教育
今回の事で大の大人が知らないうちに偏った考え方を刷り込まれていた事に驚きました。
ドラマでは悪徳政治家はラスボスとして描き易いし、情報番組などでは不祥事の方が叩き易いし盛り上がるだけで、そこに特定の思想や考え方に導く意図は恐らく無いと思います。プロパガンダという大層な言葉を使うような事でも無いとは思います。
でも普段の生活で何となく触れている物事からの刷り込みで、物の見え方が変わってしまうという事を感じ、「これは良くないなぁ」と思う出来事でした。
大の大人がそんな事になってしまうのですから、幼い子供が大人や学校などによるプロパガンダに晒され続けたらどうなるでしょう?
やはり特定の思想や偏った考え方を持った人間に育ってしまいますよね。
とても怖い事です。
私が今回の記事で言っている「教育」とは国語とか算数とかそういう事ではありません。道徳の授業を増やした方がいいと思ってるわけでもありません。
ただ、偏った考え方や特定の思想、もっと言えば大人の特定の価値観などを子供に押し付けず、自分の時代や環境の中で自分で考え、自分の価値観を持つように教え、育ててあげるのが大事だなと思った次第です。
人の価値観は育ってきた上での周りの環境や、現在の周りの環境に大きく左右されます。
でもそれが誰かの意図で左右されてはいけませんね。
終わりに
今回は最近の出来事から感じた教育の大切さを
今までと違う文体で書いてみました。
少し堅苦しくなくなったかな?とも思います。(考え方は堅苦しいですが(笑))
この先、文体も色々変わって行くかもしれませんがとりあえず続けていこうと思います。
「継続は力なり」です。
。。。。。って、あれ?この言葉も刷り込まれて使っている言葉かな?
偏見 / 差別
「老害」という言葉はどうかと思う。「最近の若いもんは」という言葉もどうかと思う。
マナーの悪さや迷惑行為、興味や様々な行動を、この一言で片付ける傾向がある。
【最近の若者は】
世間でよく言われるのが「最近の若者は言葉が乱れている」とか「最近の若者の言葉は意味が分からない」とかそういう事。
でも、話し言葉が変わったり、新しい言葉が生まれたりするのは今始まった事ではない。
あまり詳しくはないが、おじさんおばさん世代だって「ナウい」とか「あたり前田のクラッカー」とか「バッチグー」とか訳わからない言葉が生まれ、その世代の人が話していた口語だって明治時代の人から言わせれば乱れていただろう。
使われなくなった言葉は死語となり、世の中から消えていくものだし、話し言葉だって時代で変わっていくもので、江戸時代の話し言葉を今だに喋っている人はいない。
一方、昔から残っている言葉だってある。
以下過去の流行語大賞ノミネートの一部。
激辛1986
セクハラ1988
地球にやさしい1991
自己中2000
dv 2001
アラフォー2008
ゲリラ豪雨2008
大往生1994
援助交際1996
その年に生まれた新しい言葉や、今まで日本であまり使われなかった言葉がスタンダードになり、今だ数多くの人が日頃使っている言葉も沢山ある。
結局、自分の時代を棚に上げて自分の理解できない言葉や自分の時代と違う言葉使いを否定しているだけだ。
新しい話し言葉は新しい世代の物だし、それを理解できないからと言って否定するのは筋違いだと思う。
今後、新しい言葉や流行、言えていく言葉や残っていく言葉、流行る物事や消えていく流行もあるだろう。
でもそれはいつの時代も当たり前なことだと思う。
【老害】
それとは逆に自分に口うるさく言ってくる年配の人を「老害」の一言で批判して片付ける若い人もいる。
年配の人はもちろん若者より長い間生きている。人生経験豊かな存在だ。
自分の価値観を一方的に押し付けてくる年配の意見は聞く必要はないとは思うが、その人が過去に経験してきた教訓を伝えようとしてくれている人もいるだろう。その人が自分の為に助言してくれているのならば、口うるさいと思っても一旦持ち帰って、考えてみる価値は十分あると思う。
自分がこれから経験するであろう事を既に経験したひとの存在はとても貴重でそれなりにリスペクトするべきだと思う。
その人を自分なりに見極めて、そこから自分の為になることや自分の考え方にとってプラスになる事を学ぶのはとても大事な事だと思う。
【世代差別】
年配の方と若者それそれが、自分が理解できないからお互いを一言で片付け、批判するのではなく、お互いを尊重して、わからない事にも寛容になった方が良いと思うし、その方がお互いに良い関係が築けると感じている。
ここまで世代でお互いを批判する人に関して書いてきたが、結局批判すべきは自分の理解できない世代ではなくて、時代錯誤な行為や迷惑な行為、勘違いな価値観や善悪の分別のない行動をとるその人個人だと思う。
いかにも悪そうな格好をして歩きタバコをしている肩で風をきって歩いている若者もいる。5分も歩けば喫煙所がある。きっと我慢できない訳ではない。
これは偏見かもしれないが、「少し悪い俺」をかっこいいと思っているのかもしれない。でもそれはただの迷惑行為で、大多数はかっこいいとか怖いとかは思わない。
ワルはカッコいいみたいな時代もあっただろうし、私の若い時もそんな風潮は確かにあった。でも今はそんな時代ではない。
つまり時代錯誤だ。
一方、普通のおじさんが普通の顔して歩きタバコをしているのもよく見る。若い人が歩きタバコをしている姿より多く遭遇するかもしれない。
その人が若い頃は歩きタバコも当たり前で、誰も何も言わないし、迷惑だとさえ思われていなかったかもしれない。自分の時代では良かった事が今の時代でも許される事だとは限らない。ただの迷惑行為で、これも時代錯誤だ。
私は普通のマンションに住んでいるのだけれど、他の住人に挨拶した時、ちゃんと挨拶を返してくれる人に世代は関係ない。「ちゃんと挨拶くらいしろ!!」と思っている訳ではないけれど、笑顔で挨拶を返してくれる人もいれば、目の前にいるのに完全に無視する人もいる。やはり世代は関係ない。ただそこにいるのは相手の気持ちを考えない個人でしかない。
バイクで車で爆音を鳴らして移動する「移動するだけで迷惑」な人、犬の散歩で糞や尿を処理しないで放置する人、自分の成功体験を他人に押し付けで話す人、自分の時代じゃ当たり前だったと開き直る人。
多くの人はそんな事はしないと思う。
そこにいるのはただ善悪の分別のつかない「一部の」子供(この場合、親が悪い場合もあるが)、カッコいいとかそういう価値観をおかしく捉えている「一部の」若者、ただ時代錯誤に気が付いていない「一部の」年配者など、世代どうこうではなく全ての世代にいる迷惑な人でしかない。
世代で差別して一言で済ますのは良くないと思うし、行為自体を批判すべきだと思う。
【うつ病患者と照らし合わせて】
他の病気や障害でも同じだとは思うが、うつ病患者を「精神に異常がある人」と簡単に差別し、偏見をもつ人もいる。でもうつ病患者だって様々だ。
症状が重く起きられない位辛い時期や時間を過ごしている人もいるし、症状が軽くなって日常生活が普通に送れるようになったが日によって具合が悪くなってしまう人もいる。大分回復して働くことができるようになっている人だっているだろう。
症状自体だって気分の落ち込み、不安感、体が重い、眠れない、何にも興味が持てないなど挙げればキリがない。
人によって出る症状も違えば、その強さも違う。
日常生活を送るのが辛い、日常生活は普通に暮らせる、日によって全然状況が違うなど人によって様々だ。
それを「メンヘラ」だとか「病んでいる」とか場合によっては「精神異常者」とか言い、差別する人もいる。
「うつ病だから働けなくて当たり前!!」と横柄な態度を取っているのなら、その人個人が問題だと思うが、多くのうつ病患者はそうではない。
働けなくて、周りに迷惑をかけていないかと心配になり、罪悪感さえある。
休むことが治療な訳だから尚更だ。
昔みたいにみんなと遊びに行きたいけど行けないと悩む。
約束していても当日いけるか分からないし、自分の病気を理解してくれる人でないと中々付き合いは難しい人だっている。
死んでしまいたいと思っている人だっている。
これらは全て実体験だ。
私自身がうつ病なので、うつ病を例に挙げたが、うつ病だけでなくその他の病気や障害だって、同じ病名でも人それぞれ症状や状況は違うだろうし、一括りにしないでその人個人と向き合えば、きっとその人も心が少し楽になると思う。
病気、世代、外見、性別、職業など括られがちなことが多いが、そこで括って片付けてしまうのは自分にとっても良くない。括っていた人がある日突然括られる立場になることだってある。
ある日突然うつ病になることだってあるかもしれないし、事故で障害を抱える人もいるかもしれない。
実際、私はある日突然うつ病になった。
【終わりに】
ここまで世代差別や病気への偏見など色々書いてきたが、実際はそんなことしない人の方が多いと思う。この文章をここまで読んでしまったその様な方々、ごめんなさい。
ただ、多様性を認めて、少しでも寛容な世の中になれば、生きやすくなる人もいっぱいいるし、気持ちが楽になる人もいっぱいいると思った。
病気、世代、外見、性別、職業などで切って接するのではなく、その人「個人」と接する方が世の中も良くなるとも思った。
ただ理由なく他人に迷惑をかけるのは良くない。
なんか今回、説教臭かったかも。偏見を持った人が書いた偏見の文章になってしまっているかも。申し訳ないです。
愛
愛って何?とか、愛と恋は何が違うの?とか、結婚なんて紙一枚の契約事でしょ?とか、いやいや私は愛はあると思うとか、よく話しがちな話題。
今回はこの愛について、うつ病だからこそ立ち止まって色々考えた事(考えてしまった事)を文章にしようと思う。
まず、この話題には「基準」がないので基準を決めて話を進めていこうと思う。
多くの人にとって一番分かりやすいと思うのが、親子愛だ。
虐待やネグレクトなどによって、親から愛を注いでもらえなかった人、
離婚やその他問題で、自分の子に愛を注げなかった人ももちろんいるだろう。
しかし全員では無いにしろ、世の中で見る親子の多くに親子愛が存在しているのは、何となく分かる。私も親に愛をもって育ててもらったと大人になって改めて気づいたし、感謝もしている。
親は将来の面倒を見てもらうために子供を育てている訳でもなく、子供に好かれたいだけで優しく接する訳でも無い。時には厳しく怒らなければいけないこともあるだろうし、悲しいことに子供が大きな病気になってしまうことだってあるだろう。
しかし親は責任をもって、時に優しく、時に厳しく子供を育てる。
本能と言ってしまえばそれまでかもしれないが、多くの親は愛を持って子供に接し育てる。
親の愛を感じながら育ち大人になった子供(これも全員とは言えないが)は、親の事を気にかけ、時に面倒に思うこともあるかもしれないが親の事を考え、優しく、時に厳しく接する。
見返りを求めないこの行為は、恐らく(全員では無いにせよ)多くの人が何となく実感できる愛の形だろう。
血の繋がりがある訳だから、この愛の形は説明がつきやすいし、比較的「基準」として適当かなと思う。(もちろん血の繋がっていない親子にも愛はあるとは思う。)
ではそれに比べて、血の繋がっていない関係の愛はどうか?
例えば夫婦愛。
確かに手続き上は紙一枚の契約の関係だ。
ここからは私と妻の生活から自分が感じた夫婦の「愛」。
私と妻は特筆することもない位、普通に出会い、普通に同棲し、普通に結婚した。
好きになった理由も「優しいから」とか「綺麗だから」とか「一緒にいて楽しいから」とか、至って普通だ。
「この人と一生一緒に居たい」と思ったから結婚した訳で、それも普通である。
この時点で本当の意味での愛があったかと今聞かれれば、それは分からない。
結婚後すぐ離婚する人もいれば、十数年、数十年たって離婚する人もいる。愛がなくても離婚できない夫婦だっているだろう。
しかし、私がうつ病になり収入も激減し気分にも波が出るようになりそこから何年も一緒に生活をしてきて、改めて考えてみるとやはり妻からの愛を感じるし、私から妻への愛も確かにあると感じている。
病気になり、最初の頃は寝込むことも多かった。徐々に起きていられる日も増えてきて、普通に出かけられる日なんかも出来てきた。フルタイムで働くことは難しく、在宅の単発の仕事をしたり、アルバイトに出たり(これはうつ病のおかげで辞める行くのが辛くなり辞めてしまうことになったのだが。。)する生活になった。
妻は私が会社を辞める時も、アルバイトに行けなくなった時も、嫌な顔はしなかった。
心配してくれていたし、いたわってくれた。
私がこういう風になったことにより、共働きから、生活費の大半は妻が稼ぐ事となり、私はたまに仕事はしながらも、いわゆる「主夫」になった。
掃除機や洗濯などを済ませ、買い物に行き、愛犬の散歩に行って、夕飯を作る。
あえて悪い言葉を使えば、私がうつ病を抱えていなければ、生活は「ヒモ」を同じだ。
この生活で私は、体調が良く元気な日には「養ってもらって自分だけ楽していいのか」という罪悪感を感じ、体調が悪い日には「妻に迷惑をかけて申し訳ない」という気持ちになった。
しかし、結局私を救ってくれたのは妻だった。
もちろん妻も人間だから機嫌が悪い日もあれば、元気がない日もあるが、
何よりの救いだったのは「妻が変わらないでいてくれた」事。
私が体調が悪い時にも、私を心配しながらも、その日あった面白かった事を反応の薄い私に話してくれるし、テレビを見て大笑いしていてくれる。
予定があれば普通に遊びに行くし、酔っ払って帰って来る事もある。
最低限やるべき事(着替えや食事のレベル)は指摘もしてくれる。
私が元気がない時、妻が過剰に心配したり一緒に暗くなってしまうより、いつも通り元気に生活していてくれていることが何よりの救いだ。
「妻に迷惑をかけて申し訳ない」という私の気持ちはこれでだいぶ癒されていると思う。
私が元気な時には、自分に予定がなければ、普通に一緒に出かけるし、旅行に行ったりもする。ただ普通にいつも通り楽しんでいてくれる。
こんな妻と何年も一緒に生活してきて私にとって妻は、親や兄弟など血の繋がっている人間と同じか、それ以上と言っても言い過ぎではない存在になった。
血が繋がっていて愛を注いで育ててくれた親や、一緒に育った兄弟に比べても、それと同じかそれ以上に大切な人。その人との間にあるものはやはり紛れもない「愛」だと思う。
見返りを求めず、私を癒す行動を何年も取り続けてくれた妻からも「愛」を感じる。
結婚する時の手続きは確かに紙1枚かもしれないが、やはり夫婦にも確かな「愛」は生まれるものだという私の実体験からの考えだ。
結婚した頃には曖昧だった「愛」を数年経って、うつ病だからこそ考え、実際に感じることができる。
夫婦関係に限らず、血の繋がっていない家族でも、同性のパートナーであっても、例えその相手が自分の愛犬であっても、親や兄弟と同じかそれ以上と感じている存在、見返りを求めずその相手の事を考え行動し続けることのできる存在であれば、そこにはきっと「愛」があると思う。
私のように立ち止まって、改めて愛を考える時間がない忙しい人が多いと思うし、そんな事考えなくても幸せに暮らしている人の方が健全なのかもしれない。
うつ病患者の戯言だと思われてもしょうがないが、
この文章が、うつ病患者の家族や、誰かが愛を考える時の何かの役に立ってくれれば嬉しい。
それともしこの文章を読んでいるあなたがうつ病患者自身だったら、余裕がないかもしれないけれど、その愛する相手を何より大事にしてあげてほしい。
平成から令和へ
そして、元号は平成から令和へ。
昭和から平成に変わった時は私はまだ子供だった為、あまりハッキリ記憶がないのだが、昭和天皇の崩御により、世間は暗いムードだったことは記憶している。
それに比べ、今上天皇健在での新元号発表はある意味お祭り騒ぎだった。
テレビも世間の会話もそれ一色。私も結構ワクワクして官房長官の発表を見た。
明るい気持ちで新元号を語れる事、明るい新元号の報道を見られることは、とても気持ちが良いものだった。
それに伴い、明るいテーマとして今上天皇と皇后様の歩み、平成の文化の特集や歴史など、色々な特集を目にする機会が増えた。
主に平成を生きて来た私としてはそれもまた懐かしく、楽しい時間となった。
今上天皇と皇后様の歩みに関しての特集では、
沖縄訪問の際、過激派から火炎瓶を投げつけられたがそれを非難せず、「沖縄の苦難の歴史を思い、これからもこの地に心を寄せ続けていく」と表明する談話を発表した『ひめゆりの塔事件』の事や、被災地で床に膝をついて被災者の話を聞き寄り添う天皇の姿、今までの天皇の中で最も国内外色々な場所を訪れ、人々と交流を持った方であると言う事など、様々な事を目にした。また、天皇陛下と皇后様の絆、愛の深さも知ることができた。
私は、保守派でもなければ特に皇室について強い考えをもっている人間ではないが、
天皇陛下と皇后様は紛れもない人格者だと感じている。尊敬している。
100%の公務がしたいがそれが難しいという理由で生前退位の意向を示した天皇だが、
(これは私の憶測だが)明るいムードで新元号を迎える事のできる時間。それを天皇自身が想像していたのかもしれない。
明るい気持ちで新しい時代を迎えて欲しいと願ったのかもしれない。
平成時代には様々な出来事や事件があり、様々な流行や文化が生まれ、科学技術の発展はすごかった。昭和時代には想像できないライフスタイルが生まれ、それが当たり前になったりもした。
令和時代は今私たちが想像できないような事が起こり、流行や文化が生まれ、科学技術の発展などにより新しいライフスタイルも生まれるだろう。
5G電波普及による生活の変化を想像するだけでもワクワクするし、宇宙の秘密が科学進歩で解明されていくかもしれないことを考えると胸が踊る。そしてそれ以上の、想像もできない生活やライフスタイル変化には不安もあるが期待が大きい。
ともかく、今上天皇と皇后様には「お疲れさまでした。」「これからはゆっくり自分の時間を過ごしてください。」という思いを持ちつつ、新しい令和の時代を楽しみに迎え、過ごしていきたい。
令和も響も美しい。