愛って何?とか、愛と恋は何が違うの?とか、結婚なんて紙一枚の契約事でしょ?とか、いやいや私は愛はあると思うとか、よく話しがちな話題。

 

今回はこの愛について、うつ病だからこそ立ち止まって色々考えた事(考えてしまった事)を文章にしようと思う。

 

まず、この話題には「基準」がないので基準を決めて話を進めていこうと思う。

多くの人にとって一番分かりやすいと思うのが、親子愛だ。

虐待やネグレクトなどによって、親から愛を注いでもらえなかった人、

離婚やその他問題で、自分の子に愛を注げなかった人ももちろんいるだろう。

しかし全員では無いにしろ、世の中で見る親子の多くに親子愛が存在しているのは、何となく分かる。私も親に愛をもって育ててもらったと大人になって改めて気づいたし、感謝もしている。

 

親は将来の面倒を見てもらうために子供を育てている訳でもなく、子供に好かれたいだけで優しく接する訳でも無い。時には厳しく怒らなければいけないこともあるだろうし、悲しいことに子供が大きな病気になってしまうことだってあるだろう。

 

しかし親は責任をもって、時に優しく、時に厳しく子供を育てる。

本能と言ってしまえばそれまでかもしれないが、多くの親は愛を持って子供に接し育てる。

親の愛を感じながら育ち大人になった子供(これも全員とは言えないが)は、親の事を気にかけ、時に面倒に思うこともあるかもしれないが親の事を考え、優しく、時に厳しく接する。

 

見返りを求めないこの行為は、恐らく(全員では無いにせよ)多くの人が何となく実感できる愛の形だろう。

血の繋がりがある訳だから、この愛の形は説明がつきやすいし、比較的「基準」として適当かなと思う。(もちろん血の繋がっていない親子にも愛はあるとは思う。)

 

 

 

ではそれに比べて、血の繋がっていない関係の愛はどうか?

例えば夫婦愛。

確かに手続き上は紙一枚の契約の関係だ。

 

 

ここからは私と妻の生活から自分が感じた夫婦の「愛」。

私と妻は特筆することもない位、普通に出会い、普通に同棲し、普通に結婚した。

好きになった理由も「優しいから」とか「綺麗だから」とか「一緒にいて楽しいから」とか、至って普通だ。

「この人と一生一緒に居たい」と思ったから結婚した訳で、それも普通である。

 

この時点で本当の意味での愛があったかと今聞かれれば、それは分からない。

結婚後すぐ離婚する人もいれば、十数年、数十年たって離婚する人もいる。愛がなくても離婚できない夫婦だっているだろう。

 

しかし、私がうつ病になり収入も激減し気分にも波が出るようになりそこから何年も一緒に生活をしてきて、改めて考えてみるとやはり妻からの愛を感じるし、私から妻への愛も確かにあると感じている。

 

 

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病気になり、最初の頃は寝込むことも多かった。徐々に起きていられる日も増えてきて、普通に出かけられる日なんかも出来てきた。フルタイムで働くことは難しく、在宅の単発の仕事をしたり、アルバイトに出たり(これはうつ病のおかげで辞める行くのが辛くなり辞めてしまうことになったのだが。。)する生活になった。

 

妻は私が会社を辞める時も、アルバイトに行けなくなった時も、嫌な顔はしなかった。

心配してくれていたし、いたわってくれた。

私がこういう風になったことにより、共働きから、生活費の大半は妻が稼ぐ事となり、私はたまに仕事はしながらも、いわゆる「主夫」になった。

掃除機や洗濯などを済ませ、買い物に行き、愛犬の散歩に行って、夕飯を作る。

あえて悪い言葉を使えば、私がうつ病を抱えていなければ、生活は「ヒモ」を同じだ。

 

この生活で私は、体調が良く元気な日には「養ってもらって自分だけ楽していいのか」という罪悪感を感じ、体調が悪い日には「妻に迷惑をかけて申し訳ない」という気持ちになった。

 

しかし、結局私を救ってくれたのは妻だった。

もちろん妻も人間だから機嫌が悪い日もあれば、元気がない日もあるが、

何よりの救いだったのは「妻が変わらないでいてくれた」事。

 

私が体調が悪い時にも、私を心配しながらも、その日あった面白かった事を反応の薄い私に話してくれるし、テレビを見て大笑いしていてくれる。

予定があれば普通に遊びに行くし、酔っ払って帰って来る事もある。

最低限やるべき事(着替えや食事のレベル)は指摘もしてくれる。

 

私が元気がない時、妻が過剰に心配したり一緒に暗くなってしまうより、いつも通り元気に生活していてくれていることが何よりの救いだ。

「妻に迷惑をかけて申し訳ない」という私の気持ちはこれでだいぶ癒されていると思う。

 

私が元気な時には、自分に予定がなければ、普通に一緒に出かけるし、旅行に行ったりもする。ただ普通にいつも通り楽しんでいてくれる。

 

こんな妻と何年も一緒に生活してきて私にとって妻は、親や兄弟など血の繋がっている人間と同じか、それ以上と言っても言い過ぎではない存在になった。

 

血が繋がっていて愛を注いで育ててくれた親や、一緒に育った兄弟に比べても、それと同じかそれ以上に大切な人。その人との間にあるものはやはり紛れもない「愛」だと思う。

 

見返りを求めず、私を癒す行動を何年も取り続けてくれた妻からも「愛」を感じる。

 

結婚する時の手続きは確かに紙1枚かもしれないが、やはり夫婦にも確かな「愛」は生まれるものだという私の実体験からの考えだ。

結婚した頃には曖昧だった「愛」を数年経って、うつ病だからこそ考え、実際に感じることができる。

 

 

夫婦関係に限らず、血の繋がっていない家族でも、同性のパートナーであっても、例えその相手が自分の愛犬であっても、親や兄弟と同じかそれ以上と感じている存在、見返りを求めずその相手の事を考え行動し続けることのできる存在であれば、そこにはきっと「愛」があると思う。

 

 

私のように立ち止まって、改めて愛を考える時間がない忙しい人が多いと思うし、そんな事考えなくても幸せに暮らしている人の方が健全なのかもしれない。

うつ病患者の戯言だと思われてもしょうがないが、

この文章が、うつ病患者の家族や、誰かが愛を考える時の何かの役に立ってくれれば嬉しい。

 

それともしこの文章を読んでいるあなたがうつ病患者自身だったら、余裕がないかもしれないけれど、その愛する相手を何より大事にしてあげてほしい。